2004年の年金制度改革は、保険料負担の上限をどう設定するかという問題とともに、将来の年金給付水準をどこまで減らすかが大きな論点になった。この2つこそが04年改革の難所の双璧といってよかろう。給付水準の決定プロセスは政治劇そのものだった。
03年10月10日、小泉純一郎首相が衆院解散に踏み切った。スローガンに「改革なくして成長なし」をかかげた小泉政権2年間の構造改革路線に対する有権者の判断をあおぐという触れ込みだ。構造改革解散とも呼ばれ、与野党がともにマニフェスト(政権公約)を前面に出して戦った初の国政選挙であった。
自民党をぶっ壊すと公言して登場した小泉氏は、国民から圧倒的な人気を博していた。だが意外にも、この選挙で同党は議席を減らすことになる。躍進したのは野党民主党だ。多くの国民が二大政党制の到来を実感し、この選挙を経て、さほど遠くない将来に政権交代があるのではないかという期待感が醸成された。
民主党躍進の背景にあったのは、厚生労働省の年金官僚が翌04年の通常国会に提出を計画していた年金制度改革法案である。民主党は将来の給付水準が大きく減る点を突き、基礎年金の財源を全額消費税に振り替えて最低保障年金を創設する改革案を打ち出した。この案のねらいを有権者がどこまで理解していたかは未知数だ。しかし高齢層を中心に、年金が減らされることへの警戒感が民主党サポーターを増やしたのは間違いない。
とはいえ、年金給付の抑制は避けて通れぬ政治課題であった。野党側はある意味で財源負担の問題を素通りしてでも有権者受けする案を言える利点がある。「給付削減けしからん」「老後の家計がより苦しくなる」「年金の安心を取り戻す」――など、小泉政権の年金改革案に対する攻め手には事欠かない。
政府・与党側はそうはゆかない。年金保険料や消費税など国民負担の増加と将来の給付水準の抑制という、ともに有権者に嫌われる改革案の正当性を訴えて選挙に臨まざるを得ないからだ。
世界最速のペースで少子化と長寿化が同時進行する日本にあって、負担増と給付抑制は、子供の世代やこれから生を受ける将来世代へ年金制度を着実に引き継ぐために不可欠な改革である。いまを生きる私たちの世代が、遠い将来世代への利益に思いを馳せれば、政府・与党案の正当性に思い当たるだろうが、有権者の多くはいま自分に見えている範囲で物事のよしあしを判断しがちになる。
要は、年金が争点になる国政選挙はほぼ例外なく野党側を利する構造になっているのだ。民主党執行部はそれがわかっていた。
最初はマニフェスト選挙を軽視していた自民党も、民主党が描いた土俵に乗らざるを得なくなり、マニフェストを急ごしらえした。公示日の10月28日になって、小泉首相は「将来の年金給付水準は現役世代の(手取り所得の)50%程度。(加入者)本人の保険料負担は10%程度」と表明した。年金の「5割保証」を世間が知った瞬間である。民主党マニフェストへの対抗上、首相は具体的な数字で語る必要性を感じていた。
給付水準はもっと低めが望ましいと考えていた財務官僚にあせりがみえた。「総理の数字に『程度』がついているのは、私たちの立場を汲んだものだ」と強弁する幹部もいた。一方、意を強くしたのは年金官僚たちだ。彼らを代表する立場にいた坂口力厚労相は首相が口にした数字に「ありがたいことだ。厚労省と公明党がつくった案が軸になる」と勢いづいた。
案の定、選挙が終わると巻き返しに出たのは財務官僚だった。その舞台装置は経済財政や税・社会保障にかんする政策の立案に小泉首相が多用していた経済財政諮問会議。この会議の民間議員をつとめていた本間正明大阪大学教授は、財務官僚の後押しを受け官邸で首相に会い「経済の活力を維持・向上させるには企業の保険料負担を重くしすぎないことが大切です」と訴えた。
小泉氏はわかっているといった風に「50%程度と言った給付水準は45~54%の範囲を指すんです。保険料率の10%程度は許容できる最も高い数字ということですから」などと応じた。
保険料率の上限を18.3%に抑えることで決着した経緯は、本章8回目でみたとおりだ。かたや将来の給付水準は「減額しても50%まで」を死守する政治的な要請がとおることになる。それは、理屈というよりも「年金はせめて現役世代の稼ぎの半分くらいがないと、引退後の生活は成り立たない」という、権力者たちの政治感覚が発した手打ちであった。
では、具体的にはどうするのか。こうして誕生したのが「マクロ経済スライド」である。もっともこの画期的な給付抑制のための制度は、悔やんでも悔やみきれない重大な欠陥を抱えていた。