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コラム

大林 尚

第3章 苦難の支給開始年齢引き上げ~意地をみせた年金官僚 ➃ 気概ある政治リーダーはいたが

第2章の7回目に登場した吉原健二氏は、旧厚生省の事務次官を1990年に退官した。筆者が東京・八丁堀の雑居ビルの一室に吉原氏を訪ねたのは、2020年7月下旬だ。梅雨明け前の都心は小雨交じりの空模様。夏にしては肌寒い日だった。この年の初めに猛威をふるいはじめた新型コロナウィルス感染症に、だれもがひどく恐れを抱いていた。マスクの着用が日常だった。

そんななかを、年金制度改革に長くたずさわった吉原氏にアポイントメントを申し込んだのは「100年安心プラン」と銘打って彼の後輩たちが成し遂げた04年の年金制度改革について、どう考えているかを知りたかったからだ。

静かな口調で吉原氏は語った。「現在、日本の年金受給者は約4000万人いる。これは総人口のおよそ3分の1だ。支給開始年齢をこのまま65歳に据えおくなら20年後には総人口の40%が年金をもらう側に回る。そんな国はほかにない。国のかたちとしても自慢できない」

第1章でみたように、厚生労働省は年金をもらっている世代をふくめ、実質的な給付水準を毎年小刻みに切り下げる画期的なしくみを04年改革で取り入れた。マクロ経済スライドである。しかしデフレ経済のもとでは、給付水準の切り下げが不完全になるという致命的な欠陥をかかえている。

厚労省は年金の支給開始年齢を65歳から引き上げる制度改革に、かたくなに背を向けている。同省の意を受けてであろう。その理由として一部の学者やメディアなどが常に挙げるのは次の2点だ。➀マクロ経済スライドによって給付水準が抑制されるため、支給開始年齢を65歳より引き上げる必要がなくなった、➁04年の年金改革によって保険料の上限が定まり、今後100年間の支給総額は入ってくる保険料の総額と積立金の和の範囲内でやり繰りすることになった。したがって支給開始年齢を引き上げたとしても年金財政へのマクロ面での影響はない――。

➁はいくぶん難解だが、要は100年間の時間軸で「入り」と「出」が釣り合うようにしたので、支給開始年齢をたとえば68歳に上げた場合、そのぶん年金の月額単価を増やすことになる、という趣旨である。

難産の末に04年の年金改革法が国会で成立した当時は、こんな論法で支給開始年齢の引き上げを否定する年金官僚はいなかった。むしろ、支給開始年齢の引き上げは04年改革の次の大きな政治的課題になるという意識が強かった。

たとえば同年の秋、小泉純一郎首相(当時)が議長をつとめる経済財政諮問会議は社会保障改革の原案に「支給開始年齢の引き上げを検討する」と盛り込んだ。本間正明大阪大学教授が提起し、4人の民間議員の総意として議論の俎上に載せた案だ。

  1997年9月14日付 日本経済新聞から

この提案の背景には、小泉氏自身が支給開始年齢の引き上げ論者だったことがある。筆者が旧厚生省の記者クラブを担当していた1997年当時、厚相は小泉氏だった。厚生年金の支給開始年齢について「個人的には将来、65歳から引き上げざるを得ないと思う。60歳から65歳への移行がまだはじまっていないので、いますぐにできる問題ではないが」と、小泉厚相は話していた。さらには、厚生年金の民営化も改革の選択肢になると、日本経済新聞のインタビューに答えた。

同じ時期、三塚博蔵相も記者会見で「これほど少子化が進むとは予想できなかった。できるだけ早く対応しないといまの制度、しくみでは国民皆年金の目標達成は不可能だ。支給開始年齢をどのようなしくみにすべきか。65歳を超えることも議論する」などと述べていた。

  記者会見する三塚蔵相(1997年11月)=日経電子版から(北海道新聞社提供)

当時の橋本龍太郎政権として、支給開始年齢を65歳から引き上げることを将来の政策課題に、明確に位置づけていたのがわかる。

自民党政権にかぎらない。民主党政権時代の11年には、当時の小宮山洋子厚労相が68歳への引き上げ案を持ち出したことがある。これを受けて同相の諮問機関である社会保障審議会・年金部会がテーマに取り上げようとしたが、国民各層から沸き上がった反対論に抗しきれず、撤回に追い込まれた。

  小宮山厚労相(ウィキペディアから)

その後の曲折を経て、支給開始年齢の65歳固定化は半ば既成事実化しつつある。だが、それでよいのか。

国民に不人気でも将来世代のことを思い、不可欠な制度改革を推し進めようとする政治家には、近年なかなかお目にかからない。総人口の4割が年金をもらうのは「国のかたちとして自慢できない」という吉原哲学を、与野党のリーダーには胸に刻んでほしい。


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