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コラム

大林 尚

第3章 苦難の支給開始年齢引き上げ~意地をみせた年金官僚②世界に類例をみない日本人の長生き化

日本でこれから加速する人口構造の激変は年金のあり方に最も大きな影響をおよぼす要素の一つだ。ひと口に少子高齢化というが、単に子供が減り高齢者が増えるだけではない。寿命の延びという人間にとって願ってもない幸運が年金財政を脅かしているのだ。

前節でみたように、戦後まもなくの54歳男性を象徴するのが磯野波平さんだとすれば、令和8年の54歳男性を代表するのは木村拓哉さんだ。この驚くべき若返りは、日本人の長寿化がとりもなおさずこのごく短い期間に急進展したことを意味する。

平均寿命からみてゆこう。下図は内閣府の「2026年版高齢社会白書」から抜粋したグラフだ。男女がともに、戦後いかに長寿になったかがわかる。唯一の例外は100年に一度のパンデミックと言われた新型コロナウイルスコロナの影響だ。日本人の平均寿命はコロナ禍初年の20年が男性81.56歳、女性87.71歳だったが、23年には81.09歳と87.14歳に下がった。

もっとも厚生労働省傘下の国立社会保障・人口問題研究所が23年に公表した将来推計人口の死亡中位仮定によると、2070年には男性の平均寿命が85.89歳、女性はなんと91.94歳に延びる。

戦前の平均寿命が今よりはるかに短かったのは、乳幼児の死亡率の高さが平均値を押し下げていた要因が大きい。飲み水の衛生度向上、下水道の普及、栄養状態の改善、予防接種による感染症の制圧、妊婦健診や乳幼児健診の充実――など、関係者のさまざまな努力が乳幼児死亡率の劇的な低下につながった。

1961年に国民皆保険制度が完成し、患者にとって医療機関へのアクセスが向上したのも平均寿命の伸展に寄与した。皆保険の実現に汗を流した岸信介首相(在任57年2月~60年7月)の功績だ。

孫の安倍晋三氏はそのDNAを受け継ぎ、年金や医療の制度改革に意欲を燃やしていた。若手議員のころに自民党の社会部会長(現厚労部会長)をつとめ、社会保障の政策通を自任するようになった。しかし06~07年の第1次安倍政権のさなかに厚労省・社会保険庁の年金官僚らが引き起こした「消えた年金記録問題」に翻弄され、制度改革に手をつける余裕もなく退陣を余儀なくされた。歴史の皮肉であろう。

さて、90歳まで生きる日本人はどの程度いるのだろうか。厚労省が公表した25年の簡易生命表によると、男性は26.7%、女性は50.8%だ。1985年の9.4%、21.2%から大きく増え、ざっくり言えば男性は4人に1人、女性は2人に1人が卒寿を祝福されていることになる。

年金財政に影響をおよぼす65歳時点の平均余命は、男性が約20年、女性は約25年である。これは平均的な年金受給期間とも言い換えられる。波平さんの時代、年金の支給開始年齢は55歳だったが、男性の平均受給期間は10年にも満たなかった。こうしてみると、寿命の驚異的な伸長が支給開始年齢を65歳から引き上げる必要性を示しているのは明白だ。

近年、重視されるようになった概念の一つに健康寿命がある。厚労省の定義は「健康な状態で生活することが期待される平均期間」だ。他方「日常生活に制限がある状態」を不健康と定義し、平均寿命と健康寿命の差である「不健康期間」を短くすることが長寿国ニッポンの国を挙げての目標になっている。22年時点の不健康期間は男性が約8年半、女性は約12年である。

同省は平均寿命の延びを上回るスピードで健康寿命を延ばす必要性を説いてきた。しごく順当な考え方にみえるが、平均寿命の延びが早すぎたのではないかと疑ってみる視点も必要ではないか。人それぞれがおかれた立場によって状況は千差万別だが、本人の意に反して単に延命だけを目的とした医療行為がされているとすれば、それをなくすことこそが不健康期間の短縮に効果的であろう。

不健康期間は医療、介護サービスの消費がいやおうなく増える。医療費の窓口負担が現役世代より軽いとはいえ薬剤費もかさむ。蓄えが少ない低年金の高齢者は年金収入だけで月々の生計を成り立たせるのが困難になる。年金は支給開始年齢の引き上げとともに、人生のそうしたステージに照準を合わせた最低保障機能の強化が不可欠だ。そのためには効果的・効率的に税財源を投入する制度改革をためらうべきではない。

支給開始年齢を引き上げ、最低保障を確実にする。現行の年金制度が直面する2つの大きな政治課題である。


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