2004年6月、すったもんだの末に年金制度改革法が国会で成立した。参院の厚生労働委員会では民主党など野党の議員が採決を阻止しようと委員長席で乱闘騒ぎを演じた。本会議の採決では牛歩戦術をとった。このパフォーマンスは年金を減らされたくない高齢者には受けたかもしれないが、年金の持続性を高めるという改革の大きな目的を置き去りにした時間稼ぎにすぎなかった。
ほどなくして、自民党の大野功統(よしのり)、津島雄二両衆院議員と日本経済新聞の年金担当記者との懇親会があった。法成立を経ての、反省会であり、おつかれさまの会合だった。会場は東京・銀座にある「Sun-mi高松」というレストラン。香川県出身の大野氏なじみの店だ。
大野氏は大蔵官僚から政治家に転身し、税財政や社会保障制度に精通していた。04年の年金改革では自民党の年金制度調査会長として党内の議論をリードし、まとめる立場にあった。その功績がみとめられ、同年9月に防衛庁長官に就く。
津島氏も大蔵官僚の出身だ。橋本行革による中央省庁の再編前に厚相を何度かつとめ、党では税制調査会長の任にあった。社会保障・税のエキスパートとしては大野氏の先輩格である。04年の年金改革法案の審議では、野党がこの法案にさまざまな注文をつけるなかで予算委員長として議事を取り仕切った。ちなみに津島氏の妻は太宰治の長女、園子さんだ。

2004年1月、年金改革に関する与党の会合で発言する大野功統氏(中央)と津島雄二氏(右端)=日経電子版から
津島氏は1953年(昭和28年)大蔵省入省、大野氏は5年遅れの1958年(昭和33年)に入省した。大学の学部も出身官庁も同じで、大蔵省を辞めてからは自民党の衆院議員として、ともに社会保障や税制に携わってきたのだから互いに気心が知れている仲かというと、じつはそうでもない。
今と異なり、自民党は派閥全盛の時代だった。大野氏は中曾根派の流れを汲む渡辺派を経て山崎拓氏が旗揚げした近未来政治研究会に属していた。一方、津島氏はいわゆる保守本流の宏池会(宮沢派)から、もう一つの保守本流である経世会に鞍替えし、橋本龍太郎会長の後を襲って津島派を名乗るほどだった。反省会でも「お宅のムラはどんな具合ですか?」などと探りを入れ合っていた。「ムラ」は派閥の俗称である。
派閥談義が一段落し、興が乗った大野氏は、おもむろにこう語りはじめた。「今回の改革のキモはなんといってもマクロ経済スライドです。すでに年金をもらっている人をふくめ、給付水準を切り下げてゆく難題に道を開きました。じつによくできた制度だと思いませんか」
マクロ経済スライドの導入に汗をかいた年金官僚の苦労や財務官僚の手練手管をみてきた筆者も、同じ思いだった。「地元選挙区の年金生活者にそっぽを向かれることをおそれて法案に距離をおいた議員は与党にもいました。党内をよくまとめ上げたと思います」と答え、こう付け加えた。「理想を言えばマクロ経済スライドの調整期間をもっと短くできればよかったのではないでしょうか」
04年の年金制度改革法はスライド調整が23年度に終了すると想定していた。この期間を半減させて10年程度に短縮すれば年金財政はより堅実性が高まる。大野氏はにこにこしながら聞いていた。
この会合から6年後の2010年、政界を引退して弁護士として活動していた津島氏に年金改革の要諦について改めてインタビューをした。そのときの取材メモから。
「支給開始年齢の引き上げや保険料・税の負担増など、有権者には耳障りでも必要な改革を正面から訴える度量を持つ与党政治家は少ない。だからこそ有権者の受けが悪い政策の遂行には与野党の合意が不可欠だ」
「自民党政権のとき、民主党の今井澄参院議員らと勉強会を開いた。05年には自民党の与謝野馨氏と民主党の仙谷由人氏が国会に両院合同会議をつくった。与野党協議の端緒はあったが、結実はしていない」
時の首相は民主党の菅直人氏。厚相経験者にもかかわらず年金改革には背を向けていた。
それからさらに16年がたった。大野氏、津島氏とも鬼籍に入った。高市早苗首相肝いりの社会保障国民会議は、主な政党から社会保障・税に精通した議員が入る異例の構成だ。与野党の参加議員には、04年の年金改革をリードした政治責任者の遺した言葉をかみしめてほしい。