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コラム

大林 尚

第2章 砂上の皆年金制度 ⑦ 皆年金制度の確立

日本経済が戦後の復興から立ち上がり、第1次ベビーブーム期(1947~49年)に生を受けた「団塊の世代」が大学や高校、あるいは中学を出て働き始めたのは60年代から70年代初めにかけてだ。池田勇人首相が下村治博士をブレーンに担いで国民所得を10年間で倍増させる「所得倍増計画」を推し進めた時期にも重なる。まさに高度成長ただ中であった。

高い経済成長の果実を活用して福祉国家としての日本を確立する機運が高まった。61年(昭和36年)4月、厚生省は自営業者や農林漁業の従事者など、給与所得者ではない人々を対象にした国民年金制度を導入した。

民間の会社員や国・地方の公務員などの給与所得者にはすでに、厚生年金保険が制度化されていた。所得を正確に捕捉するのがむずかしい自営業者などに公正に公的年金を適用するのは本来、無理な話だ。そこで同省は、毎月の保険料を定額とし、保険料を払った期間に応じた年金を支給するやり方を採った。これによって、日本に住むすべての人が原則として公的年金制度に加入する国民皆年金制度がかたちのうえでは整った。

ちなみに、制度発足時の国民年金は保険料が月額100円、給付額は25年間の保険料支払いで月額2000円程度という、まことにつましいものであった。

55年(昭和30年)に厚生省に入り、若手の年金官僚として皆年金の確立に東奔西走した吉原健二氏は、次のような趣旨を述懐している。「皆年金という理想を追求するあまり、無理をしたことも事実だ。本来は所得のある人が保険料を払い、給付を受けるのが年金制度の原則。所得が少ない人を含めた年金制度は、技術的にはむずかしいことがわかっていた。もっとも、このような優れた政策を実現することは、戦後の日本が生まれ変わった証であると、当時の関係者は考えていた。情熱が不可能を可能にした」(日本経済新聞社編『年金を問う』から抜粋)。

吉原氏はのちに年金局長、さらには厚生事務次官として年金制度改革に取り組んだ。なかでも、強く反対を唱える与党の政治家を説き伏せ、年金の支給開始年齢を引き上げるという困難な改革を主導したのは、吉原氏の功績である。ことし94歳を迎えた吉原氏は、支給開始年齢の引き上げが男女ともに65歳を終点としていることを疑問視している。

吉原健二・元厚生次官(2017年2月5日付日経電子版から)

コロナ禍初期の2020年夏、筆者がお会いしたときはこう話していた。「厚生労働省は支給開始年齢の基準となる年齢を65歳とし、年金をもらいはじめる年齢を個人個人で選ぶやり方を取り入れた。受給開始を75歳まで繰り下げられるようにはなったが、私は基準となる年齢を70歳まで上げるのが望ましいと考えている」。現役の年金官僚はいま一度、先達の声に耳を傾けてはどうか。

話を戻そう。理想を追求してかたちづくった皆年金は、吉原氏の言を待つまでもなく、無理に無理を重ねた砂上の楼閣だった。年金官僚はその後、国民年金への加入が任意、つまり入るかどうかを自由に選べる専業主婦について「第3号被保険者」という区分を新設して、自分で保険料を払わなくても年金をもらうことができるようにした。1986年(昭和61年)のことである。

今と異なり、専業主婦世帯が多数を占める時代だった。年金官僚は、厚生年金に加入する夫に養われている無職の主婦(一定年収以下のパート主婦を含む)も年金権が確立されたと胸を張ったが、夫婦共働きが至極当然だと考える現役世代の目には、きわめて不公平な制度と映る。

そればかりか、パート主婦らの働き控えを誘う「年収の壁」という厄介な構造問題の元凶にもなっている。この深刻な人手不足の時代に、第3号被保険者制度はサービス業の経営者や管理職にとっても無用の長物になっている。

与党の一角である日本維新の会は第3号被保険者制度の見直しを自民党との連立政権合意に盛り込んでいたが、2026年6月の両党の協議で「縮小に向けて被用者保険の適用拡大をすすめる」ことで落着した。制度改革を忌避する明らかな後退である。自民党の年金族議員は未だに専業主婦を弱い立場とみなすような、ある種の亡霊に憑りつかれたままなのである。


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