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コラム

大林 尚

第1章 2004年改革の本質 ⑪ したたか坂口厚労相、大きかった公明党の存在感

2004年の年金制度改革の枕詞として、しばしば登場するのが「100年安心プラン」だ。「自分が年を取ったころには年金がもらえなくなるのではないか」という多くの若者がいだく不信感に対して「それは杞憂だ。心配にはおよばぬ」と明言するような、この単純明快なキャッチコピーを発案したのは公明党の国会議員であった。

04年改革法を成立させた小泉純一郎政権の厚生労働相は、公明党の坂口力氏だ。同党は今でこそ野に下ったが、当時は連立政権のパートナーである自民党が、ともすれば社会保障や安全保障の分野で独断専行になりそうな、ここぞという局面で健全な牽制効果をもたらす役割を演じてきた。なにしろ「福祉と平和の党」である。

坂口厚労相でなければ、04年改革法案の国会審議はもっと多難だったのではないか。小泉首相は郵政事業の民営化、道路関係4公団の分割・民営化、さらには医療・教育分野などの規制改革など、それまでの歴代自民党政権にはみられなかった構造改革路線を鮮明にした。小泉改革に一定の距離をおいていた厚労官僚も、年金・医療制度の構造改革を前面に押し出さざるを得なくなった。坂口厚労相もそれは同じだった。

たとえば03年12月末の日本経済新聞とのインタビューで、坂口氏は次のように述べている。

「(年金、医療、介護など)社会保障全体をどうバランスさせるかを議論する場が必要だと思う。これからの国づくりをどうするか、少子・高齢化社会を乗り切ることができる国づくりはどんなものか、という議論にもつながってくる。構造改革の根幹にかかわる議論だ」(下線筆者)

一方、小泉構造改革の推進役を担っていた官邸の経済財政諮問会議の改革議論が年金官僚にとって重荷になるのをやんわり牽制した。こんな具合だ。

「(構造改革の根幹にかかわる)議論は厚労省だけでなく政府全体で取り組むべきだ。それを話し合う場としては経済財政諮問会議が最もふさわしいのではないか。諮問会議は年金制度の細かい部分に注文をつけるような議論はせずに、最も大きな問題をあつかうべきだと考える」(同)

同じころに東京・内幸町の日本記者クラブで開いた記者会見も印象に残っている。「改革が微妙なときなので、ものが言いにくいところもあります」と前置きしつつも、大胆で細心な発言が飛び出した。曰く「厚生年金の将来の保険料率について20%まで引き上げると、がんじがらめに考えているわけではない」。曰く「高齢者という仕事の達人を遊ばせておく手はない」。曰く「合計特殊出生率はできれば1.5くらいには回復してほしい」――。

小泉政権の主要閣僚。(左から)塩川財務相、首相、福田官房長官、坂口厚労相(日経電子版から)

坂口氏の本職は小児科医だ。僻地医療にも携わった経験をもつ。この記者会見での発言には「人生元気に長生きすれば年金、医療、雇用制度が深刻な困難に直面することは避けられる」という信念が込められていた。

04年改革法の成立後、坂口氏の仕事は年金加入者・受給者からの評判が地に堕ちていた厚労省の外局、社会保険庁の抜本的な組織改革に移った。厚労省キャリア官僚の「上がりポスト」の一つだった社保庁長官に、損保ジャパン副社長の村瀬清司氏を三顧の礼で迎え入れたのは坂口氏だ。民間のやり方で、たるみ切った社保庁の組織風土を立て直すのがねらいだった。この人事劇の内幕は別の機会に紹介したい。

その後の第一次安倍晋三政権のもとで明るみに出た「消えた年金記録問題」を機に、社保庁は名実ともに解体され、日本年金機構と全国健康保険協会(協会けんぽ)に分割されることになる。年金機構になったことで加入者・受給者へのサービスは高まった。

こうしてみると、官僚組織に対して硬軟両様に接した厚労相だったことがわかるだろう。

01年5月、ハンセン病訴訟で熊本地裁による国側全面敗訴の判決を政府として受け入れ、福岡高裁への控訴を断念するよう小泉首相に迫ったのは、特筆に値する。このとき控訴にこだわる厚労官僚の激烈な抵抗に遭った坂口氏は「あのときほど役人が怖いと思ったことはない」と述懐している。

第2次森内閣で最後の厚相に就任し、橋本行革による中央省庁の再編とともに厚労相に横滑りした坂口氏の連続在任期間は1360日。この記録はいまだに破られていない。


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