支給開始年齢をたとえば70歳に引き上げたとしても、年金財政を改善させる効果はないと主張する厚生労働省の年金官僚と年金局御用学者の詭弁をめぐっては、もう一つの問題がある。それは、厚労省と与野党がともに、この詭弁を盾にして支給開始年齢の引き上げにそっぽを向いている事実が、年金制度を研究する経済学者などに十分に浸透していないことだ。
一つの例を挙げよう。東京大学大学院経済学研究科の北尾早霧教授は、経済産業省の独立行政法人である経済産業研究所(RIETI)が2018年6月に実施したセミナー「ブラウンバッグ・ランチ・ミーティング」(BBL)で「少子高齢化と財政の持続可能性: 社会保障とマクロ経済の定量的展望」と題して講演した。このなかで年金財政の持続性を高める手段として、北尾氏はこんな試算を紹介した。

北尾早霧氏=RIETIのサイトから
「支給開始年齢を引き上げた場合、(または)支給額を10%もしくは20%引き下げた場合のシナリオを計算したところ、どちらも年金収支に大きな効果が期待できる結果になりました」(RIETIウェブサイトの議事録から抜粋)
高齢期の就労インセンティブとの関連を問う会場からの質問には、こう答えていた。「支給開始年齢を引き上げるとどうなるかは実際やってみないとわかりません。海外での事例では、働くインセンティブが大きくプラスに変わったという結果があります。(支給開始が)65歳から67歳になって影響を受けるのは高齢者だけでなく、50歳の人にとっては年金の受給まであと15年からあと17年になり、働くモチベーションに影響があるでしょう。高齢者の労働参加率だけでなく経済全体の効果も考えることで大きな影響が出ると考えられます」(同)
ニューヨーク連銀調査部のシニア・エコノミストを経験した北尾氏は、マクロ経済学を専門にしている。モデル試算をしていないことを理由に、支給開始年齢引き上げの効果を数値で示すことはなかったが、高齢期の労働参加の促進を含め、年金財政にプラスに寄与することを定性的に示唆した。引き上げは年金財政に中立だと、お経のように唱えている年金官僚とは真っ向から対立する見解だが、的を射ているのは北尾氏のほうだ。
講演を聞いていた筆者はわが意を得たりだった。そこで、こんな質問をしてみた。「厚労省は支給開始年齢の引き上げによる年金財政へのプラスの効果はないと主張しています。これは詭弁だと思います。北尾さんはどうお考えでしょうか」
想定外の質問だったのであろう。活発に展開されていた質疑応答の時間が一瞬、止まったようだった。北尾氏だけでなく、モデレーターの井上誠一郎経産省調査課長も困惑の表情を浮かべた。厚労省がそんなことを言うはずはない、支給開始年齢を引き上げれば年金財政の健全性が高まるのは至極あたりまえのことではないか、とでも言いたげだった。
詭弁だと思うか、という筆者の問いに北尾氏は答えなかった。結局、RIETI編集部がまとめた議事録は年金官僚の主張への評価を回避していた。
まずは年金研究を専門にしていない経済学者など識者は年金官僚の主張を知る必要がある。そのうえで、主張の矛盾や盲点を的確に指摘する責務があろう。一方で、現実の制度・政策への識者の理解の遅れは、年金官僚と御用学者の詭弁をあぶりだすのに有用と考えることもできる。同時に、年金官僚らはなぜ無理筋の主張に固執するのか、その背景を探ることも重要になる。