2026年1月6日、東京・紀尾井町のホテルニューオータニで最も大きな宴会場「鶴の間」に駆け付けた高市早苗首相の年頭あいさつは、前年10月に首相の座に就いた直後のスピーチとは、聞き手の受ける印象がひと味違う中身だった。
日商・経団連・経済同友会の経済3団体が共催した新年祝賀パーティーの主賓として、である。
ときおり関西弁を交えつつ、高市首相は22世紀を生きる若い世代や子供世代への責任を強調した。
「今の暮らしや未来への不安を希望に変える」。自らの政権が経済成長を導く役割を果たすことで分配の原資を増やすのが、高市流「責任ある積極財政」だ。筆者の隣で聞き入っていたある企業経営者は責任ある積極財政を美辞に仕立て上げた内容について「近年の首相年頭あいさつのなかでいちばん印象に残る内容だった」と述べた。
25年12月に首相官邸の内閣広報官(事務次官級)として首相が経済産業官僚から抜擢した佐伯耕三氏が、このスピーチの草稿を書いたのであろう。佐伯氏は第2次以降の安倍晋三政権で、首相秘書官としてやはりスピーチライターを務めた実績をもつ。
経営者が漏らした感想のように、佐伯氏は当事者の心に刺さる言い回しや修辞句をスピーチに忍ばせるのを得意とするが、年頭あいさつには若い世代が漠として抱き続けている社会保障、なかんずく年金への不信感をどう和らげるかについての言及はなかった。22世紀への責任を果たそうとするからには、この難題を避けて通ることができないにもかかわらずである。
20年あまり前に時計の針を戻そう。時の首相は小泉純一郎氏。「自民をぶっ壊す」をスローガンに登場した小泉内閣の支持率は、いま絶好調を保っている高市内閣のそれを上回っていた。この最強内閣のうちに、過去にトライしてはつぶされてきた年金制度改革に手を付けようと霞が関の官僚たちが思い立ったのは、ごく自然なことだ。
以上は2004年の年金制度改革を厚生労働省の年金官僚らが「最後の大改革」と銘打つにいたった政治的背景の概観である。筆者はジャーナリストとして、この改革の顛末を追いかけていた。結論を先に言えば、2004年改革は最後の大改革と呼べる代物ではなかった。現に年金制度には成すべき改革がいまも山積している。かたや2004年の改革にもめざすべき方向性や手法に見るべき点が少なからずある。
衆参両院で2004年改革を経験した、つまり関連法案の審議や採決に直接携わった国会議員は、20年あまりの年月が過ぎたいま、全体の2割程度にすぎないと言われる。2004年の改革で年金官僚らが意図したもの、また政治家が仕組んだ保険料・消費税の負担と年金給付の抑制に関する変化の構造を知らねば、真にめざすべき年金改革を構想するのは困難である。
2004年改革が名実ともに「最後の大改革」であったなら、もう一段の改革は不要ということになる。実際、厚労・財務官僚や主な与野党の政策通議員は「医療制度改革こそが社会保障の大きな課題だ。年金改革は2004年改革でいちおうのケリがついた」などと、したり顔で話す。
しかし現実には、2004年の改革後も年金をめぐる議論がやむことがなかった。07年には消えた年金記録問題が大炎上し、安倍首相が失意のうちに退陣する引き金を引く重大事になった。翌年には日本経済新聞をはじめとする主要紙が独自の年金改革案を社論として紙面化し、その中身を競い合った。09年に自民・公明両党から民主党が政権を奪取できたのも、消えた多くの国民が抱く年金への不信感を掬い取ろうとした同党にとって大躍進の追い風になったからだ。
この経緯を振り返れば当局者の思惑とは裏腹に、年金制度には確固たる改革が必要な事実がみえてくる。2004年改革は最後の大改革ではなかったのである。
第一章では、2004年改革の本質を分かりやすく丁寧に解きほぐし、年金制度のどこにどんな問題が残っているのかを可視化することをめざす。まずは2004年改革を仕組むにあたり、官僚や政治家がどう考え、動いたか、軌跡をたどってみたい。
なおこの連載は日本経済新聞、日経電子版とその関連書籍に筆者が掲載した記事を参考にしている。